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左沢の家
私は大工で、住宅や店舗を作ることを生業としている。たまに設計もする。技術を用いて対価を得るための仕事であり労働である。好きだからやっている、という側面ももちろんある。では自分が住まう家はどう考え、いかに作るのか。もし、私に住宅の設計もしくは施工を依頼したいという人が現れたら、その人は私がどんな住まいに住んでいるのかが気になるかもしれない。そして私の人となりと仕事ぶりを判断する材料にするかもしれない。そうであれば、私の住まう家は熟考された設計のもとに手の込んだ作りにするべきなのかもしれない。私が仕事を獲得し、私自身の生活を維持するためにはそうするべきだ。
だが本当にそうだろうか。大げさかもしれないが、そのようなべき論によって導き出されたものが私自身の住まいとして真っ当なのだろうか。
大学の研究室で、あるとき先生にこんなことを聞かれた。「自分で設計した家に自分で住みたいと思う? この答えってパキッと別れるんだよね。これって意外と面白いよね。」そういった内容だった。ゼミの後に同級生とそのことを話した記憶がある。当時の私の答えは「全然わからない。その状況になるまで想像がつかない。けど切実な感じがすればいいと思う。」という感じだった。過去の建築家の自邸を思い返してみても、あまりに様々なものがある気がしたし、どんな事例の写真を眺めても(もちろん著名な作品ばかりだし、どれも実際に目にしたことはない。実際に見たことあるのは東孝光の塔の家の外観くらいのものだ。)建築家の思考が多かれ少なかれ反映されつつ、時代や世相を映し出しているように見えた。それらに共通するものは何か考えたときに私の口から出てきのは、ざっくばらんな、そんな言葉だった。
私なりの切実さについて考える必要があった。大工として仕事を続ける中で日々思うことはもちろんたくさんある。一口に切実さと言っても、暮らすことの切実さ、生きることの切実さ、いろんなレイヤーがある。建築家たちの自邸を写真で見た時に感じた、そこにものとして現れていた独立した切実さの正体はなんなのか。
これは「家とは何か」「私とは何か」「生活とは何か」あるいは「表現とは何か」という幾つかの問いとして考えることができるだろう。また同時に、それら分割した問いでは扱いきれない、問いと問いの隙間に建築家の自邸は存在しているようにも思える。そして当然この問いには共通の明確な答えはないし、私も自分自身のことをうまく言葉にすることはできそうにない。
ここでは、いま私の住まう家について、これが改修工事である前提のもと、いきさつと立地、施工内容と感想について記す。
資金がほとんどなかった。個人事業主であるが故に住宅ローンも借りられない。そもそも建物を新築することへの疑問もある。賃貸一択だった。まずは住まう町を決めた。幸い行政の空き家バンクが健全に機能していた。しかし、すぐに住めそうな家は家賃も高い上に小綺麗すぎて好きになれなかった。
一件、気になる物件を見つけた。街道沿いの住宅地の裏にある、崖地の端に建つ家だ。その敷地までは街道から狭く曲がった坂道を入っていく必要があった。その道は私道で、その先にある家はその家を含めて2軒だけだ。道のどんつきに崖地の畑があり、その北側に小さな庭のある古い家が立っていた。
随分くたびれている家だ。外観から見ても何度かに分けて増築されていることがわかった。全体のプロポーションは歪で、二階の乗り方も不恰好、貧相な入母屋から東、南、北面それぞれに増築された下屋が出ている。中に入ると古い部分と増築部分の違いは顕著で、やはり何度かに分けて増築されていた。古い部分の足元は辛うじて布基礎が打ってあり、鴨居は建て込みの構造材の梁材に直接溝が掘ってある。天井はやや高めで、壁は漆喰塗りだ。竿縁天井の天井板も無垢の杉材だった。床はほとんどが畳敷で荒床ごと傷んでいることが畳を見るだけで明らかだった。水廻りはほとんど使い物にならないが床板にはブナの無垢材が使われていた。現在のこの家の所有者は、近所に住んでおり、この家が空き家になった時に勿体無いからと買い受けたそうだ。生活の変化に応じて増築を加えた痕跡、さらに最後の1人か2人になり使う部屋だけ内替えをした痕跡、そして恐らくこの家の主人が最後にここで年老いて行った痕跡が見てとれた。なんとなく、ここが良いかもしれないと思った。
改修は自由に行っていいことになった。家を見つけてから改修に手をつけるまで2年ほどかかった。多くはないが資金を用意して、その資金の限界が工事範囲と設定した。
その家の敷地は商店街に近く、路線の終着駅であるこの街の駅からも徒歩圏内だ。田舎なので車を日常の足に使うが、駅が近いのは便利だ。大きな地図でみればこの街は朝日連峰、出羽三山の麓に位置する。村山盆地の西岸とも言える。街の範囲は東西に長く、西には朝日連峰の登口まで連なる山、東の端に最上川が流れている。駅や役所や商店街は最上川に近接している。東西に走る最上川支流の川に沿って県道が通っており、その川に沿いながらそれぞれの小さな集落がある。盆地の端にあり、かつては交易の要所、その奥には広大な山があり、さらに奥には朝日連峰・出羽三山が聳える。小さな町だが、古くから人の往来があった気配を風景から感じられるような気がした。
工事は水廻りを中心に行った。上下水道を引き直し、風呂、トイレ、キッチンの設置が工事全体の8割を占めることになった。平面計画は既存から大きな変更をしなかった。元の台所周辺が、内装替えの工事の痕跡が多くあり、全て撤去すると、古い煤けた天井と煙出しの開口が現れた。解体工事をしていると、なんとなしに壊すのが勿体無いものに出会うことがある。数十年ぶりに日の目を浴びた天井は傷んだ部分以外残すことにした。廊下の一部の漆喰壁やブナの床材も状態の良いところは残すことにした。継ぎ接ぎしたような室内が出来上がった。長い年月に耐えたものを残した結果、新規の仕上げには質感の近いものを採用することになった。新たに建てた壁は左官仕上げとし、開口部や建具は既存を流用したり、新たに作り直す場合も近場で採れた材料を加工して作ることにした。全体が継ぎ接ぎなのでなるべく素材の不用意な切り替えなどをしないようした。
改修工事は既にそこに事物がある状態から始まる。どこかしら「お邪魔します。よろしくお願いします。」という気持ちで工事に臨む。柱、桁や梁、大引など部材ひとつひとつに「まだまだ元気じゃないか」「よく頑張ってたなー」などと話しかけるように向き合い、何かしら手をかけていく。案外まだまだ頑張れる部材もあれば、開けてみたらもうダメだったということもある。場当たり的に対処をしていくことが最善、ということも十分にありえるのが改修工事だとも言える。
しかし、そもそも建築とは情報量も物量も多い。であるからこそ計画・設計が重要なのである。場当たり的に対処できる計画とはあり得るのか。
友人の山伏に教えてもらった言葉で「受けたもう」という言葉がある。そのまま、「うけたまわる」という意味だ。漢字で書けば「承る」とも「受け賜る」とも書くことができる。あらゆることをうけたまわるのである。この仕事をしていると作ることの致し方なさ、のようなものを感じることがある。良い場面でも、悪い場面でもどちらでもそう感じることがある。作る過程の中で、いろいろなことをうけたまわる。そこに人やものや社会がある限り、立場が違ったとしても、私たちはそれぞれに、うけたまわることを続けていくことが必要なのではないだろうか。そんな気がする。家をなおしながらうけたまわる。
そのようなことを考えながら工事にあたった。
大工工事は隣町に住む気の合う先輩大工の堀桂一さんが半分以上を担ってくれた。左官工事は大学の先輩でもあり、職人としても個人的に範としている原田正志さんにお願いすることができた。ぼんやりしたおおまかな計画には、目の肥えた、腕の立つ、控えめで耳の良い職人がよく似合う。
田舎の大工の自宅によくあることかもしれないが、住み始めた家は日々作り直したり、未だ手付かずの部分がある。このような経験をすると知らない間に受け賜ってきたその土地柄や固有の職能の中にある匂いのようなものを、自分の行いの端々に感じることができた気がする。